エジソンは親日家であった。電球のフィラメントの素材に京都の竹を使った話しは有名だが、それ以外にも、エジソンと日本との関わりは意外にも深かった。
エジソンの研究所には何人かの日本人青年が働いていた。彼ら発明王の日本理解の手助けをした。また、岩垂邦彦はエジソン・ゼネラル社で働き、後に日本電気(合資会社)を創設した。明治の日本を代表する政治家、財界人、発明家らとの交流も活発であった。
渋沢栄一、金子堅太郎、尾崎行雄、御木本幸吉、星一、野口英男らがエジソンのもとを訪ね、発明に関することだけではなく、広く国際情勢や日米関係についても意見交換を重ねた。1922年(大正11年)には、エジソン75才の誕生日祝賀会が日本工業倶楽部で盛大に開かれ、渋沢栄一が祝辞を述べた。
その際、エジソンからは明治天皇に「蝋旋仕掛けの床飾籠鳥」が献上され、2羽の小鳥がゼンマイ仕掛けで美しい声が舌を動かしさえずるので、参加者は舌を巻いて驚いたという。
1931年10月18日84才でエジソンは亡くなった。エジソンの業績を譛え、その死を悼しむ追悼会が日比谷公会堂で行われた。追悼会長である金子堅太郎子爵が追悼の辞を述べた。
日本に最初の電信を導入するきっかけを作ったのも若かりし頃の金子であった。エジソンと親交のあった日本人は、金子、渋沢にとどまらず実に多彩であった。 |
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岩垂 邦彦
アメリカへ渡った岩垂邦彦は、1877年、29歳の時、ニューヨーク市にあるエジソン・ゼネラル社に入社した。入社当時のエジソン・ゼネラル社は、電灯技術開発のために忙しく、彼は一介の見習技術者として、汗と油にまみれて働いた。小柄な日本人岩垂邦彦は「こまねずみ」のように熱心に仕事に取り組み、能率的に働いた。彼の勤勉さと能力は、しだいに人々に高く評価されるようになり、その評価はエジソン社の幹部にまで伝わっていった。この聡明な青年は、いわゆるエジソン的な経営の本質を我が物として、これを日本にもちかえった。後に彼が日本電気(合資会社)を創設した1898年(明治31年)、世間は一斉に彼を、「経済の道に明るい、非凡の経営者」との賞賛し、その事業の前途を祝福した。爾来、岩垂邦彦は、日本で唯一のエジソンパイオニアになったのである。彼のアメリカにおける2年間は、時の利、地の利、人の利を得たもので、実に幸運であったと自ら述べていた。 |
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藤岡 市助
我が国において、電灯が照明用として始めて点灯されたのは、明治11年3月25日である。当時、国内において製造供給できるところは一か所もなかった。現、東芝の創立者藤岡市助は白熱電球の必要性を痛感し、いち早く製造開発に着手した。
彼は、すでに優秀な電球をつくることができるアメリカへ渡り、エジソンの発明した白熱電球の製造工程等を詳細に見学することで、大きな収穫を得て帰国した。明治19年、彼は東京電灯会社技師長に就任し、電球製造の本格的研究開発に入った。この時代の電球の製造は、大変な困難を伴い、最先端の技術を要するものであった。しかし、次第に技術の向上と事業の拡大により、二重コイル・フィラメント(新マツダランプ)の製品化に成功し、内面つや消し電球の発明へとつながり、日本の電球の製造において大いなる躍進をとげていった。 |
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エジソン記念碑 エジソン翁の功績を讃えるため、エジソン記念費碑がわが国の電気関係者によって建立されたのは1934年(昭和9年)である。1964年には令嬢スローンさんも訪れた。1984年(昭和59年)にエジソン彰徳会(日本電気協会内)の手で石清水(いわしみず)八幡宮(京都府八幡市)境内に再建され、現在に至っている。毎年10月18日エジソン翁の命日には、同会による碑前祭が行われるが、遠足などで訪れる子供達の賑やかな声にエジソン記念碑はいつも包まれている。 |